スケートボード

おセンチ

ショップに居ると刻々と雰囲気が変わります。

ご来店いただく方々によって、ショップの雰囲気が大きく変わります。この日もいきなり華やかになりました。enjoiアパレルを扱う代理店の営業ウーマンとして、というよりもその前からキレのあるキックフリップで日本の女子スケートボーダーの代表格として気になる存在のチヒロックと、北海道で滑っている時にはインスタントで通販してくれていたTOMYくん御一行さまがご来店。不平を言う訳ではありませんが、スケートショップっていうのは実に男祭りであります。もともと中学・高校と男子校で女性と話すのも苦手ですのでなかなか適切なおもてなしが出来る訳でもありませんが、女性が来店するといつになく華やかになった気がします。しかもTシャツまで頂いてしまって恐縮であります。TOMYくんは鵠沼スケートパークで慶太が先生をするときに一緒に行って知り合ったスケートボーダー。写真も撮り始めてインタースタイルで展示会したりしてました。そして最近ショップの近くの門前仲町にお引越し。北海道→鵠沼→門前仲町と時間の流れを感じます。そうやって人によって雰囲気が変わるショップに居るとなんだかやはりみんなのおかげさまでショップが成り立っているんだなあ、と再認識する毎日です。

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ちょっとおセンチなのは家の片付けをしていたところ昔の取材ノートを見つけたからか?僕はもうずっと昔の事になりますが、Warpという雑誌で「Why don't you SKATE?」というスケートボードのハウツーの連載をしておりました。5年くらいやったかな。始めた当初は担当の西野くんといかにスケートボードを街に浸透させるか、ということを考え続け、それまでの野球やテニスのハウツーのようにでなく、カッコよく、しかも丁寧にトリックを説明するページにしようとメラメラしてました。 その思いは渡会くん、平瀬ダイちゃん、今井くんに受け継がれていきました。今でこそ、原稿はWORDで書いてメールで送りますが、最初の原稿は手書きでした。それを郵送で入稿。なんてアナログな。しばらくしてワープロ。フロッピーに書き込んで郵送。、そしてその後プリントアウトしてFAX。この辺でやっとパソコンをゲットです。POWERMACでした。当時の原稿もフロッピーで持ってますが気がついたら今のPCはフロッピードライブがないですね。店のデスクトップで一度データ変換しておかなきゃね。読めるのか?

連載の取材に関してもいろいろ思い出しちゃいました。記念すべき第一回目の先生ライダーは今はJANのオーナーの早川ダイちゃんとZIZOWだったなあ。LEEや淳之介、真之介、晋、熊、慶太、ワタル、亀ちゃん、ハッシー、WURA、HIGOちゃん、もう数え切れないくらい全国のスケートボーダーに出会いました。みなさん大変お世話になりました。その頃はAJSAのMCも始めていたので、この時期に日本中のスケートボーダーと触れ合う機会が急激に増えました。ページ数も6pから8pに増えて誌面のレイアウトやデザインはURA3ワークでありました。連載は好評で単行本化されたりビデオ化されたり、今でも「あのハウツーでスケートボードを始めました」って言ってもらえるのがうれしいです。当時は今のようにネットでググッて情報を集めたりできませんでしたので、スケートボードに関する情報はすべて雑誌やビデオからでした。毎月の連載だったので進行に関してはかなりセメントで、企画→撮影→写真チェック→執筆→色校の流れが終わりの無い果てしない作業に思えました。「次はどのライダーに何をやってもらおうか」と考えるのが楽しくてしょうがなかった。撮影も当時はパークなんてなかったからほとんど行き当たりばったりで、天気で大きくスケジュールがずれ込んだりすると徹夜で原稿書いたりすることも多かった。

あっ、なんだか長くなりそうなので無理やりまとめますが、昔話しをするってことはすっかり歳をとってしまったという事でしょう。つい先日、おばあちゃんが94歳で没しました。亡くなる直前まで自分の身の回りは自分ですべてしていた気丈な祖母でした。大正3年生まれで3度の戦争を経験しながら5人を育てた祖母でした。家族や親戚、友人など今までもう何度もお別れをしてきましたが、いつでも人の死に触れるとあらためて自分の「生」に気付かされます。誰でもそれぞれに決して平坦な人生ではないでしょうが、僕はいま自分がここでこうしていること自体に感謝して生かされて行きたいなあ、と思いました。

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今日も元気だご飯がうまい。さあ夏が来る。

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